近所のカフェへ行って、ひたすら卒論を読み、採点をし、口頭試問の時にする質問を考える。半日で5本しか片付かなかった。芸能としての「歌舞伎」と風俗としての「かぶき者」の関係とか色々勉強になるし、戦前に宝塚歌劇が当初付属していた「温泉地」とディズニーミュージカルの付帯設備としての「テーマパーク」の類比関係を指摘する議論などは、この前読んだ吉見俊哉の図式を連想させたりして刺激的。レヴィナスフッサールの他者論の比較とかも読んだ。しかしこの間、自分の仕事は全く進まない。
髪を切りに行って、夜はベルギーのピーピング・トムを見に行く。FacebookでFからプッシュされてたし、この前もフランス在住の某ダンサーから激しくリコメンドされたのだが、学生の卒論を続けて読んでいたためか至って冷静にパターン分析しながら見てしまった。誰かが出てきて、しばらく何かやって、引っ込むか、途中で別の誰かが出てくる。基本的にこれの繰り返しによって、色々なモティーフが数珠つなぎになっている。シェルカウイ他の『d'avant』とか、プラテルとか、ニード・カンパニーとか、サシャ・ヴァルツとか…(ついでにいえばペニノだなと思いながら見ていた)。「絵」というかイメージ(行為とか状況とか)がポンと出されて、でもそれが「持続」していく動機は特にないため、とりあえず同じことがしばらく「反復」されたり、あるいは音楽がかかったり、あるいは次のシーンの人物が登場してしばらく絡みそうな雰囲気を見せた後、結局絡まないで入れ替わったりするのだが、何でそういうことが起きるのかといえば、作り手が観客を拘束しておいて一定の情報を伝達したいから、という以外に必然性が感じられない。しかし観客としては、まさにこの「持続」の形式というもの、別の言い方をすれば、「時間の流れ方のフォルム」というものをこそ、楽しみたいと期待しているものではないだろうか。それは例えば、「ドラマ」であったり、「リズム」であったり、「動きの体系」であったり、あるいは単に「物理的なメカニズム」であったり、とりあえずは何でもいい。また逆に何も起きないために「生々しい」体感時間が露出してくるというのならそれでもいい。
ダッシュで帰ってさらに卒論。