マリー・シュイナールはいわば享楽主義の奇才というイメージだったが、今回の作品は予想外なまでに深くて、震えてしまった。ギリシャ神話の意味なんてよくよく考えてみたこともないけど、「人類で最初の詩人」オルフェウスの詩というのが世の万物へ向けられた普遍的な「愛」=エロスなのだとすれば、じゃあそれは、特定の誰かに向けられた個別的な「愛」とは両立できるの、できないの、ということを思いながら見ていた。「誰か」を愛するということは、世界の全てを愛することではないのだから、愛を限定するということなのか。しかしそもそも限定のない愛っていうものは可能なのか。アガンベンの『涜神』に入っている最初の「ゲニウス」(genius)からの引用が最後の方に出てきていたが、アフタートークでも自分の作品はいつも「創造」とか「アート」についての作品(=創造)なんだと言っていてカッコ良すぎ。あと彫刻家が大理石を愛するように、自分は振付家なのでダンサーを愛しているんだとも言っていて、特にこの前半の「大理石への愛」という言い方が実にさりげなく常識を超えてるというか、作品そのものの中身とも響き合っていて衝撃的だった。
その後、飯田橋日仏学院でエマニュエル・ユインのプレゼンテーションを見に行く。偶然だがギリシャつながりで、まずニジンスキーの『牧神の午後』のいくつかの部分が踊られた。なんでニジンスキーなのか、こっちはよくわからなかったが、Quatuor Albrecht Knust のラバノーテーション版の上演にボリス・シャルマッツとともに参加していたとのことだった。90年代にフランスでスペクタクル傾向からの離反が始まった時期のことで、あ、ジャドソン再評価とかその辺の話が聞けるのかと思って身を乗り出したが、とにかく「ダンス」というものを根本から再検証してみようとなった時に、フランスではジャドソンのような抽象的な「分析」というより、他の様々な領域との「比較」や「コラボレーション」を通じて「ダンス」の可能性を問い直すような方向へ行ったらしく、後は造形作家や宇宙物理学者との共同作業の例がどんどん紹介されていた。ユインは父親がヴェトナム人なので、この一連の作業の初期にヴェトナムに興味をもったそうだが、アイデンティティの話題は出てこなくて、わりと普通にフランス流のユニヴァーサリズムを実践しているような印象をもった。