朝一で出勤し卒論の口頭試問。一人15分ずつ。限りなく「儀式」に近いと思うけど、学生の側はプレッシャーで大変。
『MOMM』2月号が届いていた。連載の欄は、10月のフォーラムに集まった批評家が二人ずつ隔月で担当していく構成のようで、先月は中国の Jiang Dong とイギリスの Donald Hutera、今月はオーストラリアの Philipa Rothfield とぼくだった。この四人の交代制で回していくらしい。他の人が何を書いてるのかは写真から推測するしかないが、Jiang Dong は10月の時のショーケースについて、Donald はイギリスの振付家のインタヴュー、Philipa は韓国のショーケースで見た「マーサ・グレアム的な」ものについて書いてるみたいだ(ぼくは日本/沖縄/アメリカ論)。他のページも、何が書いてあるのか、本当に読みたいと思う。言語の壁というものの厚さを感じる。
そういえば先日ある公演会場の物販で薄い冊子が売られていて、見たら、振付家についての論考というか評論のようなテクストに写真がたくさん入っているものだった。珍しいので買っておいたが、あとでネットを見ていたらこれを「写真集」とよんでいる人がいて、舞台の写真がないので残念、と書かれていた。そこには確かに相当な量の文章が載っているのだが、それがフランス語で書かれているというだけで、その人にとってそれらの言葉は存在しないも同然で、したがってその本は「写真集」ということになるのだろうか。「(自分の読めない言葉で書かれた)本」ではなく、単に「写真集」といってしまえるこの感覚は怖いなと思った。