生まれたばかりの子にあらゆる言語を話す能力が潜在的に具わっているというのは素晴らしい。しかし、あらゆる潜在的能力を保っていたら一つも言葉がしゃべれない。だから、極端に言えば、たった一つを残して、残りの能力を取り敢えず全部破壊していくのが、母語の修得だということになる。ちょっともったいない気もする。大きくなってから外国語をやりたくなるのは、赤ん坊の頃の舌や唇の自由自在な動きが懐かしいからなのかもしれない。大人が毎日たくさんしゃべっていても絶対に舌のしない動き、舌の触れない場所などを探しながら、外国語の教科書をたどたどしく声を出して読んでいくのは、舌のダンスアートとして魅力的ではないか。柔軟に、あらゆる方向に、反り返り、伸び縮みし、叩き、息を吐く舌、一つも意味を形成できないままに自由を求めて踊りまくる舌、そんな舌へのあこがれがわたしの中に潜んでいる。でも、そんな舌を本当に持ってしまったら、もう誰にも理解してもらえないことになる。だから仕方なく半硬直した単言語人間の舌を取り敢えず装って、まわりと意味をやりとりしながら暮らしていく。しかし、その奥には自由な舌への衝動が隠されているのではないか。
多和田葉子『エクソフォニー――母語の外へ出る旅』、岩波書店、2003年、47〜48頁)

2月下旬に恵比寿の写真美術館でやっていた「恵比寿映像祭」の、カタリーナ・ズィディラーの作品を思い出す。Zdjelar というこの(セルビアの)ややこしい苗字を、外国人が発音しようと懸命に努力しているところを写した作品や、まったく英語がわからない老人に英語の歌を耳で聴き取って自分なりに書き取ってもらうところを写した作品など。今ある言語が壊されつつ別の言語が生成してくるそのプロセスが淡々と写し取られていて、何か身悶えしてしまうようなフィジカルな面白さだった。
どちらかというとぼくは舌の動きを操作して正確な音を出す努力をするのが苦手で、自分なりに口から出力できるようになるまでひたすら耳でコピーする派。