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篠崎芽美の初ソロは、予想外にも、日本では稀なパフォーマティヴィティを備えた真正のアート作品だった。つまりこれは、別に世の中にあってもなくてもいいような作品ではなくて、上演する意味のある作品、そして見る意味のある作品だと思った。パフォーマティヴになること(「意味」への関与)を嫌ってダンシング(無意味、反意味)に逃避する、という日本のダンスのパターンからの離脱。しかもヨーロッパ式にダンシングをパフォーマティヴィティで置き換えたり抑圧したりする類の啓蒙主義に陥るのではなく、踊る肉体に内在しつつ外へとつながる視点を提示していて、「肉」というテーマを経由した目でもってダンスを見る、ということを観客にさせる。食うもの、食われるもの、そして「食われたもの」の混成体としての肉=体が踊る。ダンスというよりむしろ「ダンス」という観念に揺さぶりをかけられた気がした。
稲嶺前沖縄県知事がNHKで、先月27日の全国知事会議で欠席した知事が多かった上に、基地受け入れの意向を示唆したのが大阪の橋本知事だけだったという事実に沖縄県民は本当に失望したという話をしていた。確かにこの会議はあまりに時期が遅すぎたとはいえ、結果として要するに各地方自治体はほとんど誰も真剣に沖縄のことを考えようとはしていないし、つまり国全体のことを考えようともしていないということだ。この話を聞いた時、政府や民主党を叩くことしか思い浮かばないマスコミと、結局あらゆる本質的な問題をゴシップ(人事)に還元して満足してしまう幼い国民のことを思った。確かに政治家たちは無能だ(った)が、本当に無能で無責任なのは、政治家たちばかりではなく、むしろこの国の国民一人一人ではないか。民主主義が責任転嫁のシステムとしてしか機能していない。そんなのは「国」の名には値しないから、とりあえず一度アメリカの51番目の州になってしまった方がいい。そうすれば日本の47番目の県としての(=現在の)沖縄の立場をみんなで実感できるに違いない。